1945年8月6日午前8時15分

16歳。出社中、会社の建物に入った瞬間に爆弾が落ちた。爆心地から2.5km位のところだった。建物が倒れた。残骸に組み敷かれ、左足だけが外に出ていたので、爆弾の列気にやけどをしたのは左足だけだった。あっちこっちにケガをした。足の骨が外に飛び出ていた。助けを呼んで通りかかりの人に助けてもらった。顔にはガラスの切片が無数に差し込まれた。

 

そのガラスの切片を全部取ってもらったのは1984年、(被爆者健康手帳 をもらってから)原爆病院でのことだった。終戦して17年後位、顔にクリームを塗っていたら、目の下の部分から2cm位のガラスの切片が出てきたこともあった。顔のいろんなところにガラスの切片が感じられたが、保険がなかったので治療を受けることはできなかった。

 

父親が先に渡日して炭鉱で働き、3年後に家族全員が日本へ渡った。私は当時7歳。姉が一人、弟が二人いた。日本へ渡ってからまた妹が二人、弟が一人生まれて七人兄弟になった。広島で日本人学校に通った。

 

妹の一人は被爆当時に家が倒れて死んだ。弟の一人は頭に大きいケガをした。日本に叔父さんの家族も住んでいたが、叔母さん以外には全員死んだ。父は体の具合がよくなく、すぐにも死にそうだった。毎日血を吐いていた。父は当時41歳。小腸が溶けてしまったのか、排便も難しかった。凄く臭い正体不明の塊みたいなのを排泄した。父はがりがりやせていて、骨と皮ばかりになっていた。

 

自分の死を直感した父は、自分を日本に残して韓国に帰りなさい、と言った。戦争が終わり、日本に残っている朝鮮人はすべて日本人に殺されるという噂が立っていた。日本にいると死ぬから韓国に帰りなさいと、父親は言った。

 

兄弟の3人は被曝で死んだ。母と4人兄弟で、宇品で船に乗った。10月10日だった。小さい船に乗って、途中で小さい島で何日間泊まったりして、対馬まで23日かかった。対馬で夕方5時位に船を乗り換えて、明け方に釜山に到着した。

 

日本に渡る前に住んでいた陜川郡(ハプチョングン)双冊面(サンチェッミョン)に家とたんぼがあったので、そこに戻った。帰国してから4人兄弟の中、二人が死んで、両親もまもなく死んだ。帰国当時、私は17歳だった。18歳で被爆者の男と結婚した。

2004年9月19日の日曜日午後2時頃、陜川原爆被害者福祉会館で聞いて記録したアン・ウォルソンさん証言の日本語訳。市民団体の調査で朝鮮人被爆者が約7万人、全体被爆者の約10%と言われているが、当時の公式文書の確認はできないため、正確な数値はわからない。現在韓国に住んでいる被爆者は約2千名(協会登録者基準)。その中で約1百人位が韓国唯一の被爆者関連期間である陜川原爆被害者福祉会館に住んでいる。