4月からIstituto Italiano di Cultura Osaka(イタリア文化会館‐大阪)でイタリア語を勉強している。毎週の水曜日午後8時から1時間半。まだ数字も20までしか数えられないレベルである。 「Ciao, come va?」という挨拶に私の答えは大体「Ah, oggi sto proprio male.(ああ、今日は本当に良くないです。)」である。最近毎週歯医者さんに通ってるからだ。生まれて初めて歯石取りに行ったら、検診の結果、虫歯が三つも発見された。その内一つは神経治療が必要だった。 そしてアマルガム。私の虫歯は小学生時代に治療したもの。中学に入ってから歯医者さんには殆んど行ってない(行けばよかった)。当時、韓国で保険が適用される材料はアマルガムだった。最近は韓国でも15歳未満や妊婦に禁じられるなど、アマルガムを他の材料に変えていってるようだが。法律で使用が禁止されてる国もあるらしく、とにかくアマルガムは入れ替えることにした。 この段階で水銀中毒症状が気になってくる。まず出てくるのが筋弱化。あれ?もしかして?あとは「中枢神経・内分泌器・腎臓などの器官に障害をもたらし、口腔・歯茎・歯にも損傷を与える」らしいが、ふむ、よくわからない。 水銀中毒と言えば「不思議の国のアリス」の 帽子屋が有名である。ヴィクトリア朝のフェルト地帽子を作るために水銀が必要だったので、実際に水銀中毒の帽子屋が多かったそうだ。ただ、本当はそれと関係なく、キャロルの知り合いをモデルにして作ったキャラクターである、という説もある。 “Everyone wants […]

基礎代謝量 1117kcal 体脂肪率 29.2% うでの脂肪率 40.2% あしの脂肪率 36.4% 内臓脂肪指数 45 筋肉量 15kg うでの筋肉量 1.74kg あしの筋肉量 6.65kg 骨量 2.2kg 測定日:2018年12月13日     こんにちは、隠れ肥満です。ジム通っています。目標は筋肉量を増やすこと。

朝鮮学校。 日本人にも、韓国人にもなじみのない言葉、朝鮮学校。北朝鮮学校ではなく、朝鮮学校。でも北朝鮮から一部支援をもらっているので、どっちかというと北朝鮮学校に近い、と言うしかない。でも実際は「朝鮮語」と「朝鮮伝統文化」を習うための学校であって、「北朝鮮語」と「北朝鮮文化」のためではない。従って、学校の名前も「北朝鮮学校」ではなく、「朝鮮学校」なわけだ。 戦後、日本にいた「朝鮮人」は約200万人だったという。そのうち約140万人が「朝鮮半島」にもどり、約60万人が日本に残った。朝鮮半島に戻るために「韓国籍」か「北朝鮮籍」かを選択しなければいけなったのは、祖国の分断を認めたくない人々には辛いことだっただろう。そこに、1948年韓国済州島の4・3虐殺事件から逃げてきた韓国人も沢山いた。 やっと日本統治時代が終わり、「朝鮮の名前」が、「朝鮮語」が使えるようになったが、民族学校を持つのはものすごく大変だったという。GHQが民族教育を認めなかったからだった。GHQ・日本からの朝鮮学校閉鎖令にもかかわらず、朝鮮語学習への暑い熱望は消えなかった。35年間失われた言葉を再び失われるわけにはいかなかったはず。 朝鮮学校の始まりは朝鮮語教室である。戦後の韓国は日本の朝鮮語教室に興味を持たなかった。結局北朝鮮の支援で、朝鮮学校が設立された。(現在の支援がどれくらいの規模なのかはわからない) 「朝鮮学校」の存在は韓国にも殆んど知られていない。パルゲンイ(アカ)コンプレックスの影響もあるが、そもそも韓国政府は、韓国人は植民地時代に関するすべてのことに無関心のように見える。2006年、キム・ミョンジュン監督が北海道朝鮮初中高級学校で撮ったドキュメンタリー「ウリハッキョ(我々の学校)」の大ヒットで韓国でも少し朝鮮学校が知られた。 ウリハッキョ。我々の学校。「在日朝鮮人」は朝鮮時代に国から離れて来てるため、厳密に言うと韓国人でも北朝鮮人でもない。言葉の呼び方も、「韓国語」と言ってしまえば「韓国の言語」と意味が限定される、「朝鮮語」は北朝鮮のイメージが強い、ということで「ウリマル(我々の言葉)」がよく使われている。そして「ハングル」という文字は北も南も同じなので、「ハングル」と呼ぶこともある。 ちなみに、「北朝鮮」のことは韓国では「北韓」と呼び、「韓国」のことは北朝鮮では「南朝鮮」と呼ぶ。ヨーロッパ言語では「南コリア」「北コリア」と呼び、コリアというのは朝鮮の以前の国である「高麗」を意味する。(そう、高麗人参の歴史は長い。)歴史が複雑な分、用語も、その下に隠れている意味も複雑なのである。 韓国人として韓国で生まれた私が現状を理解するには限界があるだろう。私にはハングルも伝統文化も、すべてが当たり前のことだったので、苦労してそれを習いたいという気持ちは正直分からない。民族という概念も、今の時代では昔ばなしみたいなもんだと思っている。ただ、日本の現実を生きている朝鮮学校の皆さんをすごく尊敬している。 最近の朝鮮半島平和ムードを誰より喜んでいるのは在日コリアンのはずだ。いつか南と北が協力して、全世界にコリアンの言語・文化教育施設を立ててほしい。だれでもハングルの勉強がしたい人を、朝鮮だけじゃなくて韓国・北朝鮮の文化に興味がある人を対象にすればいいのだ。 そこに国籍とか、民族とか思想とかはもう重要ではない。

日本に来てから3年4ヵ月。母国にいる時は外国語(日本語と英語)の本を読んだり、外国語のツイートをしたりしていたけれど、もう殆んどやらない。今は少しでもたくさんのハングルが読みたい、聞きたい、そして書きたい。 キムチが嫌いだった私が日本に来ていきなりキムチ大好き派になったのと同じ背景があると思っている。勿論韓国で食べたキムチと日本のキムチは味が全然違うし、私はどっちかというと日本のキムチのほうが食べやすいし口に合う気がする。でも味の問題より先に「とにかくキムチが食べたい」という気持ちの問題。 私はいつも母国語ではない言葉を使うのが好きだった。言葉で作られる限界を超えて、今まで考えたこともなかったことが考えられるようになる、外国語の力が好き。外国語を通じて外国人と話したいとか、旅行をしたいとかという気持ちはあまりない。それよりは外国語で考える自分、外国語で発見できる自分の方にずっと興味がある。だから「もう知っている母国語の自分」よりは「まだまだ未知の外国語の自分」が楽しくて、外国語の勉強をする。 日本に来て少し時間が経って、日本語はだんだん外国語ではなくなって、むりやり名前を付けるとしたら「生活語」と呼べるだろう。必要な時、例えば請求書を読む時や地震・天気情報を確認する時、仕事をしている時など以外には日本語の文章をあまり読まなくなり、日本語のツイートもやらなくなった。日本語の本がこんなに身近にあって、安く手に入るのにもったいない。昔は外国語としての日本語を使うのがただ楽しかったが、今は生活するため、生き残るための日本語を使わないといけなくなったから、やっぱりなんか違う。 だからこそ日本語ドットコムを始める。キムチも美味しいけど、納豆も食べようと。

最近一番美味しいラーメンはこれ。私がいつも頼んでるのは「超人的海老潮」。日本に来る前に10年くらい肉を食べなかった時期があったけど、日本に来てから「やっぱりラーメンは食べたいかな」という理由で肉をまた食べ始めた。初期はほとんど毎日ラーメンを食べていたが、少しずつ、私が好きなのはラーメンじゃなくて韓国インスタントラーミョンということに気づいてしまった。 でもこれはおいしい。  

16歳。出社中、会社の建物に入った瞬間に爆弾が落ちた。爆心地から2.5km位のところだった。建物が倒れた。残骸に組み敷かれ、左足だけが外に出ていたので、爆弾の列気にやけどをしたのは左足だけだった。あっちこっちにケガをした。足の骨が外に飛び出ていた。助けを呼んで通りかかりの人に助けてもらった。顔にはガラスの切片が無数に差し込まれた。   そのガラスの切片を全部取ってもらったのは1984年、(被爆者健康手帳 をもらってから)原爆病院でのことだった。終戦して17年後位、顔にクリームを塗っていたら、目の下の部分から2cm位のガラスの切片が出てきたこともあった。顔のいろんなところにガラスの切片が感じられたが、保険がなかったので治療を受けることはできなかった。   父親が先に渡日して炭鉱で働き、3年後に家族全員が日本へ渡った。私は当時7歳。姉が一人、弟が二人いた。日本へ渡ってからまた妹が二人、弟が一人生まれて七人兄弟になった。広島で日本人学校に通った。   妹の一人は被爆当時に家が倒れて死んだ。弟の一人は頭に大きいケガをした。日本に叔父さんの家族も住んでいたが、叔母さん以外には全員死んだ。父は体の具合がよくなく、すぐにも死にそうだった。毎日血を吐いていた。父は当時41歳。小腸が溶けてしまったのか、排便も難しかった。凄く臭い正体不明の塊みたいなのを排泄した。父はがりがりやせていて、骨と皮ばかりになっていた。   自分の死を直感した父は、自分を日本に残して韓国に帰りなさい、と言った。戦争が終わり、日本に残っている朝鮮人はすべて日本人に殺されるという噂が立っていた。日本にいると死ぬから韓国に帰りなさいと、父親は言った。   兄弟の3人は被曝で死んだ。母と4人兄弟で、宇品で船に乗った。10月10日だった。小さい船に乗って、途中で小さい島で何日間泊まったりして、対馬まで23日かかった。対馬で夕方5時位に船を乗り換えて、明け方に釜山に到着した。   日本に渡る前に住んでいた陜川郡(ハプチョングン)双冊面(サンチェッミョン)に家とたんぼがあったので、そこに戻った。帰国してから4人兄弟の中、二人が死んで、両親もまもなく死んだ。帰国当時、私は17歳だった。18歳で被爆者の男と結婚した。 2004年9月19日の日曜日午後2時頃、陜川原爆被害者福祉会館で聞いて記録したアン・ウォルソンさん証言の日本語訳。市民団体の調査で朝鮮人被爆者が約7万人、全体被爆者の約10%と言われているが、当時の公式文書の確認はできないため、正確な数値はわからない。現在韓国に住んでいる被爆者は約2千名(協会登録者基準)。その中で約1百人位が韓国唯一の被爆者関連期間である陜川原爆被害者福祉会館に住んでいる。  

京都のブルース名所、「ZACO(ザコ)」から譲ってもらったブルースフェスティバルのポスター。一見、アルファベットBが沢山見えるので、ブルースミュージシャンになるためには名前に必ずBを入れた方がいいのか?と、思わせる。このポスターを見るたびにBの数が気になったので、数えてみた。 ブルースフェスティバルだからここにBが一つ。ブルースの王になるためのバトルだからここでBが二つ。B.B.Kingの名前にも二つ。Bobby “Blue” Blandの名前には三つ。Albert King, Little Milton, O.V.Wright, Otis Clay, Muddy WatersはB数ぜロ。Betty Wrightの名前には一つ。チケット販売店のBoss Bob Records Shopには二つ。ポスター印刷所はBaltimoreのByrd StreetにあるからBが二つ… Bは全部で28回登場した。多い!と思いながらも、常識的に考えるとEが一番多いはずなのでEを数えた結果、やっぱりEの数は32。ついでにアルファベット全部を数えてみると、Aは20回、Iは31回、Oは30回、Lは28回、J、Q、Zは0回。そして驚くことにTが43回だった。 […]

猫の名前は「ねこ」だった。私は彼を普通名詞としての「ねこ」と呼んでいて、使いたい言語によって「コヤンイ(韓国語)」、「キティ(英語)」「ネコ(日本語)」など、気まぐれな呼び方をしていたが、私がどんな言語で彼を呼んでも、彼はいつも自分が呼ばれていることを確実に認識していた。 ねこは猫科猫属の代表であり、象徴でもあった。彼は猫という動物を、ニャーという鳴き声を、柔らかい毛を、暖かいぬくもりを意味した。彼は「ねこ」以外の名前で呼ばれることができないくらい、猫だった。彼を「モモ」とか「ミミ」みたいな名前で呼ぶことはできなかった。 ねこは太っていて、世界で一番愛しくて、毎日ではないけど出迎えと見送りをしてくれて、いつもどこかにかくれんぼをしていて、それでも「ねこちゃん」と呼んだら寝ぼけた顔で必ず出てきてくれて、たまには爪でジーンズをボロボロにしたり、私のお腹の上でゴロゴロしたり、尿路結石になったり、蚊を殺したり、単ボールに入っていたり、信じられないくらい早いスピードで舌を動かして水を飲んだり、前足で私を殴ったり、私の瞳をじっと見つめていてくれたり、顔を近づけると鼻のチューをしてくれたり、そして、死んだりした。